涙のリクエスト
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夜更けの病室は、機械の小さな電子音だけが響いていました。
白い天井を見つめたまま、夫は浅く息をついています。
「……あなた、寒くない?」
「いや……大丈夫だ」
かすれた声。
その声を聞くたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるのに、私は長いあいだ、その気持ちを認めずにきました。
――仕事ばかりで、家にはいなかった人。
――約束を何度も忘れた人。
――娘の発表会にも来なかった人。
「……悪かったな」
ふいに、夫がつぶやきました。
「何が?」
「……いろいろだ」
それ以上は続きません。
謝罪の言葉は、いつも曖昧で、短くて、頼りない。
私は椅子に座り、ラジオを見つめました。
病室の隅に置いた小さな携帯ラジオ。
あの曲を、どうしても聴かせたい――
それが、私のたった一つの願いでした。
若い頃、まだ何も持っていなかった私たちが、古いアパートで一緒に聴いたあの曲。
貧しくても、夢だけは大きくて。
あなたは私の手を握って、笑っていた。
「いつか必ず、幸せにする」
その約束を、私はずっと忘れずにいました。
――けれど、あなたは仕事に追われ、家族よりも会社を選び続けた。
私は、黙って、待ち続けた。
そして今、あなたは余命わずかだと告げられた。
私はラジオ番組に、何通も手紙を書きました。
『夫との思い出の曲を、どうか流してください。
この曲を一緒に聴けたら、きっと本当の気持ちを伝えられる気がするのです』
けれど、人気番組。
何度出しても、読まれることはありませんでした。
それでも、私は書き続けました。
夜、病室の小さな机で、涙を落としながら。
ある日の夜。
「さあ、今日もたくさんのお便りをいただいています」
軽やかなDJの声が流れます。
私はいつものように、半ばあきらめながら耳を傾けていました。
「次のお便りは――“ラジオネーム・ユリイカ”さんからです」
私は息を止めました。
「『余命わずかな夫がいます。若い頃、二人で何度も聴いたこの曲を、どうか夫に届けてください。長い間すれ違ってきましたが、最後に、ありがとうと伝えたいのです』」
私は、思わず口元を押さえました。
「……読まれた……」
涙が、ぽろりと落ちます。
DJの声が、少しだけ静かになりました。
「ユリイカさん。きっとご主人、聴いていますよ。
音楽には、不思議な力があります。
どうか、この曲が、お二人の心を結びますように」
そして――
あのイントロが流れ出しました。
夫のまぶたが、ゆっくりと開きます。
「……この曲……」
「覚えてる?」
私は、声を震わせながら言いました。
「……忘れるわけ、ないだろ」
夫の目に、涙がにじみます。
「……あの頃……お前、よく笑ってたな」
「あなたも、笑ってたわ」
しわだらけの手を、そっと握ります。
こんなふうに手を握るのは、何十年ぶりでしょう。
「……ごめんな」
「……」
「俺は……怖かったんだ。貧乏が。
お前に、苦労させるのが嫌で……
気づいたら、仕事しか見えなくなっていた」
涙が、ぽたぽたと枕に落ちます。
「でも……大事なものを、間違えた」
「……」
「お前が……一番大事だったのに」
私は、声をあげて泣きました。
「ばか……。今さら、遅いのよ……」
「……ああ……遅いな」
それでも、夫は微笑みました。
「……ありがとう」
「……何に?」
「ずっと……そばにいてくれて」
曲はサビに入り、若い日の記憶が一気にあふれ出します。
狭い台所。
安いカーテン。
未来を信じていた二人。
「私ね……あなたを、嫌いになれなかった」
「……」
「寂しかった。恨んだこともある。でも……好きだった」
夫の目から、静かに涙がこぼれます。
「……もう一度……やり直せるなら……」
「きっと、同じ人を選ぶわ」
夫の喉が小さく震えました。
「……ありがとう……」
「……」
「愛してる」
それは、結婚してから一度も聞いたことのない言葉でした。
「……私もよ」
曲が、静かに終わります。
夫の手の力が、すっと抜けました。
「……あなた?」
呼吸は、穏やかでした。
まるで眠っているように。
けれど、その頬には、涙の跡が光っていました。
私は夫の胸に顔をうずめ、声をあげて泣きました。
「ありがとう……ありがとう……」
長い年月のわだかまりが、涙とともに溶けていきます。
あの夜、ラジオは確かに、私たちの心をつないでくれました。
愛は、遅すぎることがあっても、
決して消えていくことはなかったのです。
病室の窓の外に、朝の光が差し込みました。
私は、夫の手を握ったまま、静かにささやきました。
「あなた、ちゃんと届いたわよ。
私の――涙のリクエスト。」
最後までお読みくださりありがとうございました。
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ぜひ見てみてくださいね。
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夜更けの病室は、機械の小さな電子音だけが響いていました。
白い天井を見つめたまま、夫は浅く息をついています。
「……あなた、寒くない?」
「いや……大丈夫だ」
かすれた声。
その声を聞くたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるのに、私は長いあいだ、その気持ちを認めずにきました。
――仕事ばかりで、家にはいなかった人。
――約束を何度も忘れた人。
――娘の発表会にも来なかった人。
「……悪かったな」
ふいに、夫がつぶやきました。
「何が?」
「……いろいろだ」
それ以上は続きません。
謝罪の言葉は、いつも曖昧で、短くて、頼りない。
私は椅子に座り、ラジオを見つめました。
病室の隅に置いた小さな携帯ラジオ。
あの曲を、どうしても聴かせたい――
それが、私のたった一つの願いでした。
若い頃、まだ何も持っていなかった私たちが、古いアパートで一緒に聴いたあの曲。
貧しくても、夢だけは大きくて。
あなたは私の手を握って、笑っていた。
「いつか必ず、幸せにする」
その約束を、私はずっと忘れずにいました。
――けれど、あなたは仕事に追われ、家族よりも会社を選び続けた。
私は、黙って、待ち続けた。
そして今、あなたは余命わずかだと告げられた。
私はラジオ番組に、何通も手紙を書きました。
『夫との思い出の曲を、どうか流してください。
この曲を一緒に聴けたら、きっと本当の気持ちを伝えられる気がするのです』
けれど、人気番組。
何度出しても、読まれることはありませんでした。
それでも、私は書き続けました。
夜、病室の小さな机で、涙を落としながら。
ある日の夜。
「さあ、今日もたくさんのお便りをいただいています」
軽やかなDJの声が流れます。
私はいつものように、半ばあきらめながら耳を傾けていました。
「次のお便りは――“ラジオネーム・ユリイカ”さんからです」
私は息を止めました。
「『余命わずかな夫がいます。若い頃、二人で何度も聴いたこの曲を、どうか夫に届けてください。長い間すれ違ってきましたが、最後に、ありがとうと伝えたいのです』」
私は、思わず口元を押さえました。
「……読まれた……」
涙が、ぽろりと落ちます。
DJの声が、少しだけ静かになりました。
「ユリイカさん。きっとご主人、聴いていますよ。
音楽には、不思議な力があります。
どうか、この曲が、お二人の心を結びますように」
そして――
あのイントロが流れ出しました。
夫のまぶたが、ゆっくりと開きます。
「……この曲……」
「覚えてる?」
私は、声を震わせながら言いました。
「……忘れるわけ、ないだろ」
夫の目に、涙がにじみます。
「……あの頃……お前、よく笑ってたな」
「あなたも、笑ってたわ」
しわだらけの手を、そっと握ります。
こんなふうに手を握るのは、何十年ぶりでしょう。
「……ごめんな」
「……」
「俺は……怖かったんだ。貧乏が。
お前に、苦労させるのが嫌で……
気づいたら、仕事しか見えなくなっていた」
涙が、ぽたぽたと枕に落ちます。
「でも……大事なものを、間違えた」
「……」
「お前が……一番大事だったのに」
私は、声をあげて泣きました。
「ばか……。今さら、遅いのよ……」
「……ああ……遅いな」
それでも、夫は微笑みました。
「……ありがとう」
「……何に?」
「ずっと……そばにいてくれて」
曲はサビに入り、若い日の記憶が一気にあふれ出します。
狭い台所。
安いカーテン。
未来を信じていた二人。
「私ね……あなたを、嫌いになれなかった」
「……」
「寂しかった。恨んだこともある。でも……好きだった」
夫の目から、静かに涙がこぼれます。
「……もう一度……やり直せるなら……」
「きっと、同じ人を選ぶわ」
夫の喉が小さく震えました。
「……ありがとう……」
「……」
「愛してる」
それは、結婚してから一度も聞いたことのない言葉でした。
「……私もよ」
曲が、静かに終わります。
夫の手の力が、すっと抜けました。
「……あなた?」
呼吸は、穏やかでした。
まるで眠っているように。
けれど、その頬には、涙の跡が光っていました。
私は夫の胸に顔をうずめ、声をあげて泣きました。
「ありがとう……ありがとう……」
長い年月のわだかまりが、涙とともに溶けていきます。
あの夜、ラジオは確かに、私たちの心をつないでくれました。
愛は、遅すぎることがあっても、
決して消えていくことはなかったのです。
病室の窓の外に、朝の光が差し込みました。
私は、夫の手を握ったまま、静かにささやきました。
「あなた、ちゃんと届いたわよ。
私の――涙のリクエスト。」
最後までお読みくださりありがとうございました。
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