高橋真梨子 【遥かな人へ】

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「大分っていいね」
そう呟いた彼の声は、雑踏の騒音に紛れてしまいそうなくらい小さかった。だが、隣を歩いていた私にははっきりと聞こえた。

大分駅から少し離れた、古びた商店街。シャッターが閉まったままの店も多いが、軒先に並ぶ色褪せた看板や、通りの向こうに見える小さな丘のシルエットは、確かに彼の記憶を呼び覚ますのに十分な風景だった。

彼、健太(けんた)が東京へ引っ越したのは、小学校高学年の頃だったか。親の仕事の都合で、突然の別れだった。それから十年近い月日が経ち、彼は大学の長期休暇を利用して大分に帰省していた。

私たちは幼馴染で、この街の至る所が、私たち二人の思い出の場所だった。彼が指差す先には、昔よく駄菓子を買い食いした店があり、少し先には、二人で秘密基地を作った空き地へと続く坂道がある。

「うん、懐かしいね」と私は精一杯明るい声を出したが、胸の奥がきゅう、と締め付けられた。

この街は、二人で一緒に過ごした日々の記憶をそのまま閉じ込めたような場所だ。東京という大都会で、きっと彼は新しい生活に忙しかったに違いない。そんな彼が、今、私の隣で、あの頃と変わらない風景を見つめている。

彼の横顔に、少しだけ寂しそうな影が落ちたように見えたのは、きっと私の気のせいではないはずだ。

「なぁ、あそこの空き地、まだあるかな?」健太が、ふと足を止めて尋ねた。「秘密基地、まだ残ってるかもしれない」

彼の提案に、私は少し驚いた。あの空き地は、もう草木がぼうぼうで、とても入れるような状態じゃないはずだ。最後に見たのはいつだったかな。

「もうね入れないと思うよ。草だらけだし、危ないかも」
「そっか……」健太は少し残念そうな顔をした。
私たちは目的もなく、商店街をさらに奥へと歩き続けた。かつては賑やかだった通りも、今は人影まばらだ。その静けさが、かえって昔の記憶を鮮明に蘇らせる。

「東京はどう?」私が話題を変えようと尋ねた。「楽しい?」
「まあね。でも、人が多すぎて疲れることもあるかな。それに、こっちと違って、空が狭いんだよ」

健太はそう言って、見慣れた大分の広い空を見上げた。高い建物が少なく、どこまでも広がる青空。私も見上げてみる。確かに、東京の空はビルの谷間で切り取られているのかもしれない。

「ここで育った俺たちには、あの窮屈さは合わないのかもな」と彼は笑ったが、その笑顔は少しだけ強張っているように見えた。

沈黙が流れる。東京に行ったあの日から、私たちは物理的な距離だけでなく、心の距離も少しずつ開いてしまったような気がしていた。私は大分で自分の日常を生きてきたし、健太は東京で全く新しい世界で暮らしている。

「あのさ、陽菜(ひな)」健太が急に真剣な声で私を呼んだ。「俺さ、東京に引っ越してから、こっちに帰りたくなる時ってよくあったんだ」
私は息をのんだ。彼がそんな風に思っていたなんて、知らなかった。

「新しい友達もできたし、楽しいこともたくさんあった。けどね、ふとした瞬間に、この街の匂いとか、音とか、全部思い出して……」彼の声が途切れとぎれになる。「その度に、ここに残った陽菜のことを考えてた」

私の胸は高鳴った。彼が自分の正直な気持ちを話してくれている。

「私、あの時、健太がいなくなってすごく寂しかった。でも、健太は東京で頑張ってるんだって、自分に言い聞かせてた」私は精一杯の勇気を出して、自分の気持ちを伝えた。

「だから、今日、健太が『懐かしい』って言ってくれた時、すごく嬉しかったの」

商店街の角を曲がると、目の前に小学校が見えてきた。休み時間にはいつも二人で遊んでいた校庭。

「今から思えば、もっとちゃんとあのとき、さよなら言えばよかったな」健太が言った。「あの日はバタバタしすぎて」
「うん、そうだね」

私たちは小学校のフェンス越しに、夕暮れに染まる校庭を見つめた。オレンジ色の光が、私たちの影を長く伸ばす。

昔、二人でこの街に住んでいた。その事実は変わらない。離ればなれになっても、この風景は、あの頃の記憶を今も鮮明に映し出してくれている。

健太が私の方を向いた。夕日のせいで、彼の表情はよく見えなかったけれど、その瞳の奥に、昔と変わらない優しさと、少しの切なさが見えた気がした。

「また、帰ってくるよ」健太が言った。「今度はもっとゆっくりな」
「うん、待ってる」私は笑顔で頷いた。
もしかしたら、この再会は、今までの失われた時間を取り戻すための、また新しい始まりなのかもしれない。

夕暮れの中、遠く離れていた二人の心は、再びこの街で繋がったような気がした。

ーほいたらねー

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高橋真梨子 【遥かな人へ】


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