ガロ 「学生街の喫茶店」
午後の光が傾きはじめた喫茶店に、男はゆっくりと入った。
扉のベルが、昔と同じ音で鳴る。
テーブルの並びも、カウンターの色も、変わっていない。
ただ、学生たちの笑い声の調子が違って聞こえる。
ボブ・ディランのレコードが流れていた頃、ここは小さな世界の中心だった。
――君とよくこの店に来たものさ。訳もなく、お茶を飲んで、話したね。
彼女は笑いながら、いつも砂糖を三つ入れていた。
「苦いのは苦手なの」と言いながら、結局最後まで飲みきれないまま、カップを指で回していた。
その仕草が、風にそよぐ木の葉のようで、男はただ見とれていた。
あの頃は、愛という言葉を知らなかった。
知っていたら、たぶんこんな近くでお茶などしなかっただろう。
季節が巡り、街路樹が枯葉を散らすある日。
彼女は「就職が決まった」と言った。
「東京に行くの」と。
男は「頑張れよ」としか言えなかった。
サヨナラも言わずに別れた。
あれが最後だった。
――時は流れた。
男はいま、初老になっている。
胸ポケットの中には、昔の写真。
喫茶店の片隅で笑う彼女の姿が、小さなプリントに焼き付けられている。
ボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind」が、スピーカーから流れてきた。
その音を聴いた瞬間、空気があの日の匂いを取り戻す。
男はゆっくりとカップを持ち上げ、窓の外を見た。
秋風が街路樹を揺らし、ひとひらの葉が舞い落ちる。
その瞬間、ドアの向こうでベルが鳴った。
――ドアを開け、君が来る気がするよ。
目を上げると、そこにはひとりの女性。
白髪をすこし染め残した髪、落ち着いた笑み。
目が合った。
彼女もまた、驚いたように立ち止まる。
そして、小さく笑った。
「……まだ、この店、あるのね」
「そうだな。お茶でも、飲むか?」
二人は向かい合い、湯気の立つカップを手にした。
沈黙が、やさしく流れていく。
あの頃、うまく言葉にできなかった“何か”が、
今、静かにそこにある。
――あの頃は、愛だとは知らないで。
――サヨナラも言わないで、別れたよ、君と。
街の風が、またひとつ、枯葉を運んだ。
過ぎた時間がすべて美しいと思えるほどに、
二人は、静かに微笑んだ。
ーおしまいー
-----------------・-----------------
ガロ 「学生街の喫茶店」
君とよくこの店に 来たものさ
訳もなくお茶を飲み 話したよ
学生でにぎやかな この店の
片隅で聴いていた ボブ・ディラン
あの時の歌は聴こえない
人の姿も変わったよ
時は流れた
あの頃は愛だとは 知らないで
サヨナラも言わないで 別れたよ
君と
君とよくこの店に 来たものさ
訳もなくお茶を飲み 話したよ
窓の外 街路樹が美しい
ドアを開け 君が来る気がするよ
あの時は道に枯葉が
音もたてずに舞っていた
時は流れた
あの頃は愛だとは 知らないで
サヨナラも言わないで 別れたよ
君と 君と……