夜に聴く曲 【22歳の別れ】 伊勢正三
今日は、「雨の物語」の対の歌、「22歳の別れ」です。
「雨の物語」は男性の立場から書いた歌
「22歳の別れ」は女性の立場から書いた歌
「雨の物語」では、は男性の回想から始まり、彼女が部屋を出ていくところの回想からでした。逆に「22歳の別れ」では女性が実際にその男性と別れる当日の話です。この歌両方とも切なく悲しい物語です。親に決められた結婚で別れざるを得なかった時代の話です。
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何日か、実家に帰っていた。東京に戻るとすぐに俊郎の部屋に勝手に足が向いた。ドアを開けると、いつもの匂いがふわりと迎えてくれた。洗いたてのシャツの香りと、古い木製の家具が染みこんだ部屋の匂い。そのどちらも、葉子の胸をやさしく締めつける。
「急に来るなんて、珍しいな」
俊郎は笑った。いつもと変わらぬ声。
「……うん、ちょっと話したいことがあって」
葉子は靴を脱ぐ指先が震えているのを、自分でも気づいてしまう。
俊郎は湯気の立つマグカップを差し出し、葉子は両手で受け取った。温かさが沁みる。けれど、余計に言葉が出にくくなる。
「元気だった?」
「まあね。葉子は?」
「私も、まあまあ」
こんな会話さえも、胸の奥に針を刺すように重く響く。
沈黙が流れる。時計の針の音が葉子の心臓の鼓動と競争をしている。
「ねえ……」
「ん?」
「実は俊郎に言っておきたいことがあるの」
「いったいなんだい」
葉子の喉は乾いているのに、言葉だけが熱を帯びて滲み出そうとする。
声にならない吐息が何度も揺れて、最後にこぼれ落ちた。
「……あ、あなたに“さようなら”って言えるのは、今夜しかないの……」
言葉を置いた瞬間、堰を切ったように涙が頬を伝い落ちる。止めようとしても止まらず、胸の奥に隠してきた想いがすべて水に変わって流れ出す。肩を震わせながら、彼の視線をまともに受け止められず、葉子は床に崩れ落ちた。
俊郎は瞬きをした。けれど何も言い返さない。ただ、視線が大きく揺れる。
「明日になってまた、あなたの手を握ってしまうと、きっとなにも言えなくなる気がするの」 言葉を吐き出すたび、胸が軋んで息苦しい。
俊郎はマグカップを置き、深く息を吐いた。
「……そうか」
その声に、葉子の涙腺がにじむ。
「覚えてる? 私の誕生日に、たくさんのローソクを立てたよね」
「あぁ覚えてるさ。葉子は火を吹き消す前に笑いすぎて、ロウがケーキに垂れたんだ」
「ふふ……そうだったね」
笑いながらも、頬に涙が伝っていく。俊郎の前で泣きたくなかったのに。
葉子は深呼吸をして、ようやく言った。
「私、結婚するの」
いきなり部屋の中に風が入り、カーテンが揺れる。俊郎はしばらく黙り込み、それから小さくうなずいた。
「……幸せになるんだな」
「うん。でも、ひとつだけお願いがあるの」
俊郎が顔を上げる。葉子の声は震えていた。
「あなたは、あなたのままでいて。変わらないで。どこにいても、今のままのあなたでいてほしいの」
俊郎は何も言わず、ただ目を細めた。
その沈黙が答えのようで、葉子はマグカップを置き、立ち上がった。
「ありがとう。今日、会えてよかった」
ドアノブを握る手が重い。けれど、振り返らない。
今日の“さようなら”は、二人の記憶に刻まれる最後の言葉。
その言葉が、胸の奥でいつまでも余韻を響かせて、夜の静けさに溶けていく。
ーおしまいー
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風(Kaze) - 22才の別れ
あなたに「さようなら」って言えるのは
今日だけ
明日になってまたあなたの
暖い手に触れたらきっと
言えなくなってしまう
そんな気がして………
私には 鏡に映った
あなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった
幸せにすがりついてしまった
私の誕生日に
22本のローソクをたて
ひとつひとつがみんな君の人生だね
って言って
17本目からはいっしょに火をつけたのが
昨日のことのように………
今はただ5年の月日が
永すぎた春といえるだけです
あなたの知らないところへ
嫁いでゆく私にとって
ひとつだけこんな私の
わがまま聞いてくれるなら
あなたは あなたのままで
変わらずにいて下さい そのままで