【神田川】 かぐや姫
「ねえ、ばあば。昔のお話して」
炬燵でみかんをむいていた孫のミカが、きらきらした目で聞いてきた。
「……そうねえ。じゃあ、若い頃のことを少し」
昭和の40年代、でも古い時代。
私とあの人は三畳一間で暮らしていた。
窓の外には細い川が流れていて、夕暮れになると水面が赤く染まった。
「狭かったけどね、その部屋は宝物みたいな場所だったの」
「ふーん。どんなふうに?」
「お布団も一枚だけ。食べるのも質素でね。けれど笑う声だけは絶えなかった」
銭湯に行くとき、私は髪を長く濡らして震えて待っていた。
「寒いね」って言うと、あの人は少し照れながら肩を抱いてくれた。
「ばあば、ロマンチックじゃん!」
「ロマンチック……だったかしらねぇ。でも、あのときは必死よ」
ある日、彼は色鉛筆の箱を抱えて帰ってきた。
「似顔絵、描いてやるよ」
「ほんとに? うまく描いてよ」
だけど紙の上にできた顔は、私とはまるで違った。
「ちっとも似てないわよ」
「いいんだよ。俺には、こう見えてるんだ」
そう言って私の指先を握り、真顔で聞いた。
「……悲しいかい?」
私は首を振った。
「悲しいより、嬉しいよ」
孫が目を丸くして言う。
「それで? 結婚したの?」
私はゆっくりと首を横に振った。
「しなかったの。若すぎて、未来を一緒に描くことができなかった」
「じゃあ、どうして別れたの?」
「生活が苦しくてね。お互いに、『幸せにしてやれない』って思ったのよ」
私はその後、おじいちゃんと出会って、家族を作った。
「おじいちゃんね、すごく不器用だけど誠実な人だったの」
「うん、わかる! いつも黙ってばあばを見てるもん」
三人の子どもが育ち、四人の孫ができた。
台所で騒ぐ声を聞くたびに、胸がいっぱいになる。
「ばあば、その人のこと……まだ好き?」
私は少し間を置いて、静かに笑った。
「ええ、好きだったわ。心の奥に、今でもね。
でもね、人って不思議なものなの。ひとつの愛を大切にしまって、別の幸せを選ぶことができるのよ」
ミカはしばらく考えて、それからにっこり笑った。
「ばあば、かっこいい!」
私は泣き笑いしながら孫を抱き寄せた。
「かっこよくなんかないわ。ただ……あの頃の思い出があるから、今の幸せがあるの」
夕焼けが窓を染める。
神田川の流れのように、青春は遠く過ぎ去った。
けれど今、子や孫に囲まれて、私は笑って生きている。
「ねえばあば、またその話して」
「ふふ……何度でも。忘れないように、ね」
ーおしまいー
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【神田川】
貴方は もう忘れたかしら
赤いてぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が 待たされた
洗い髪が 芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の からだを抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
貴方は もう捨てたのかしら
二十四色の クレパス買って
貴方が描いた 私の似顔絵
うまく描いてねって 言ったのに
いつもちっとも 似てないの
窓の下には 神田川
三畳一間の 小さな下宿
貴方は私の 指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ
若かったあの頃 何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった